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<対馬探訪2023>3. 江戸時代② ~対馬藩・宗氏の城と城下町をたどる

全国の城や城下町が、規格化された江戸時代。

その流れの中で、対馬は独創的な都市づくりをしていたのがとてもおもしろいところです。
そして、その構造や景観が今も厳原の町並みとしてほぼそのまま残るのが大きな魅力。
区割りはほぼそのままで、古地図を見ながらたどり歩けます。

 

金石城と桟原屋形

金石城/復元された櫓門

秀吉時代に太閤検地の対象外とされた対馬では、
江戸時代になっても社会体制の刷新が進まず、中世的な支配体制が続きました。

大きく変わったのは、17世紀半ばになってから。
4代将軍・徳川家綱の治世下、江戸の6割が焼けた1657(明暦3)年の明暦の大火の直後あたりのことです。

全国的にみると、立藩した丸亀藩が幕府の援助を受けて丸亀城を築いたり(1643)、
宇和島伊達藩2代・伊達宗利が宇和島城の天守を建造した頃(1666年)。
幕藩体制も確立していますし、1615(元和元)年の一国一城令/武家諸法度の公布後ですし、
全国的にみると、流れから逸れたイレギュラーなタイミングですね。


 
お船江


対馬藩のこの時期の大改革の流れはこんな感じ。

1659(万治2)年 大火で1078軒焼失
1660(万治3)年 桟原屋形(府中城)の造営を開始、お船江を築造
1661(寛文元)年 大火で715戸焼失
1662(寛文2)年 屋敷割、町割の再編成
1669(寛文9)年 金石屋形が改修され金石城に
1679(延宝7)年 桟原屋形が完成


ちなみに現在の地名「厳原」は、明治時代に入ってからついたもの。
対馬国府があったことから本来は「府中」と呼ばれ、桟原屋形(桟原城)も「府中城」でした。
 

中世的な発想と近世的な発想が融合

桟原屋形/厳原幼稚園に移転復元されている高麗門

江戸時代の府中(厳原)は、中世的な発想の金石城と近世的な桟原城・城下町が混在・共存していたのがおもしろいところです。
宗氏の支配の独自性、特殊性を示しているようで、とても興味深いです。

桟原屋形と城下町は、近世的な城下町構造でした。
桟原屋形は港からもっとも離れた最奥に置かれ、館に通じるまっすぐな大手道「馬場筋」沿いに、家臣の屋敷が並んでいました。
城を中心として侍屋敷(侍町)」「町家(町人地)」「寺町」の3つを外側に向けて並べる、近世の城下町のセオリーに準じています。


 
中村館跡
池神社(池館跡)
 
宗氏は戦国時代になると本拠を国府に移し、
1526(大永6)年に宗家を継いだ宗氏14代盛賢(将盛)が、中村館から池館に移転。
1528(享禄元)年に池館が内紛で焼失したため、金石屋形を築いて移っています。


 
浜殿神社

中村屋形が中心だった頃は、金石城のあたりは海だったそうで。
港湾を抑える、極めて中世的な在り方でした。


特筆点は、桟原屋形が築かれた後も、金石城が位置付けを変えながら共存したことです。
それまでも本拠を短期間で転々としていた宗氏でしたが、金石屋形は桟原屋形ができてからも存続し、江戸時代を通じて使われました。
対馬藩では古くから「御城」は金石城、「御屋敷」は桟原屋形を刺し、宗家文書の「毎日記」にもそう記されています。
居館は桟原屋形に移転したものの、政庁機能は金石城のままだったよう。
1811(文化8)年に易地聘礼で朝鮮通信使が来島した際も、幕府上使の宿館として用いられています。

対外的には近世のセオリーを取り入れた都市づくりに準じ、一方で、金石城は変わらずに拠点として維持。
独自の支配を確立させてきた、宗氏の理念と対馬藩の在り方が垣間見えます。



 

なぜ城を移転し、城下町を整備した?



朝鮮通信使の招聘が、近世的な城と城下町を導入しつつ新たな都市を整備する主目的でしょう。

石英斑岩の真っ白な石垣で囲まれた城下町は、
スペインのミハスさながらの美しさだったかもしれません(それは言いすぎか?笑)



 

室町時代から江戸時代にかけて、朝鮮が日本に派遣した「朝鮮通信使」は、
朝鮮の国書を日本に届け、日本の国書を朝鮮に持ち帰る外交使節団のことです。

朝鮮出兵で断絶した国交は、対馬藩の努力で回復。
江戸時代の朝鮮通信使は、1607(慶長2)年から1811(文化8)年まで、12回迎えられました。
1811(文化8)年の12回目の朝鮮通信使では、江戸ではなく対馬で応接して国書を交換しています(易地聘礼)。

朝鮮は、鎖国体制下で江戸幕府が外交関係を正式に結んだ唯一の国。
国家的行事として総勢300~500人の使節一行が迎え入れられ、対馬藩はその仲介役として大きな役割を果たしました。
使節団は対馬を経由して江戸へ向かいますから、つまり対馬は使節団が最初に見る“日本の顔”でした。


この頃は倭館貿易も好調で、金石城の拡張と改修に踏み切れたのもこうした情勢の表れかもしれませんね。
1659(万治2)年と1661(寛文元)年の大火災も、幕府の援助を受けながら大規模に町の整備をするきっかけだったようです。


 

金石川北側の護岸によく残る金石城の石垣。
大改革された1669(寛文5~9)年頃の築造と考えられます。

現在は大手門(櫓門)が復元されています。





旧金石城庭園は、宗家文書の『毎日記』の作庭記録らしき記述から、1690~93(元禄3~6)年頃の成立と推定されています。





気になるのは『清水山城及び金石城絵図』に清水山城の詳細が描かれていることなんですよね。。
これ、どちらかというと清水山城の絵図なのが気になります。

どう解釈したらよいのか、かなり迷うところ。。今後の課題にしたいと思います。



 
 

桟原屋形は1872(明治5)年から陸上自衛隊対馬駐屯地になっています。
そのため自由に入ることはできませんが、少しだけ石垣を見ることができます。
わりとオープンで、開放日もあるそう。
いつか、行ってみたいと思います。

 

宗氏の菩提寺、万松院



金石城の西側裏山にあるのが、宗家の菩提寺である万松院。
宗義智以下歴代の藩主と夫人の霊が把られています。
20代・宗義成が1615(元和元)年に父・義智の菩提を弔うために創建しました。





132段の石段「百雁木」と幽玄の美だけでなく、全国屈指の規模を誇る御霊屋も見事。
金沢市の前田藩墓地、萩市の毛利藩墓地と並び、「日本三大墓地」のひとつとされているほどです。





本堂は1879(明治12)年の建造ですが、山門と仁王像は焼失から免れた対馬最古の建物。
堂内には朝鮮国王から贈られた三具足(!)、徳川将軍の大位牌が並んでいます。
三具足は、3種類の仏具(香炉・花瓶・燭台)のこと。
朝鮮国王から贈られているって、、、苦労しつつも友好関係を築いていた証ですよね。

わりと朝早くから訪れることができるので、立ち寄ってみてください。






ちなみに、朝鮮通信使の外交機関「以酊庵」が置かれていたのが、西山寺。
現在は宿坊になっていて、私は定宿にしています。
国書偽造気分が味わえます。笑





Text & Photo / Sachiko Hagiwara


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