江戸時代の府中(厳原)は、中世的な発想の金石城と近世的な桟原城・城下町が混在・共存していたのがおもしろいところです。
宗氏の支配の独自性、特殊性を示しているようで、とても興味深いです。
桟原屋形と城下町は、近世的な城下町構造でした。
桟原屋形は港からもっとも離れた最奥に置かれ、館に通じるまっすぐな大手道「馬場筋」沿いに、家臣の屋敷が並んでいました。
城を中心として侍屋敷(侍町)」「町家(町人地)」「寺町」の3つを外側に向けて並べる、近世の城下町のセオリーに準じています。
宗氏は戦国時代になると本拠を国府に移し、
1526(大永6)年に宗家を継いだ宗氏14代盛賢(将盛)が、中村館から池館に移転。
1528(享禄元)年に池館が内紛で焼失したため、金石屋形を築いて移っています。
中村屋形が中心だった頃は、金石城のあたりは海だったそうで。
港湾を抑える、極めて中世的な在り方でした。
特筆点は、桟原屋形が築かれた後も、金石城が位置付けを変えながら共存したことです。
それまでも本拠を短期間で転々としていた宗氏でしたが、金石屋形は桟原屋形ができてからも存続し、江戸時代を通じて使われました。
対馬藩では古くから「御城」は金石城、「御屋敷」は桟原屋形を刺し、宗家文書の「毎日記」にもそう記されています。
居館は桟原屋形に移転したものの、政庁機能は金石城のままだったよう。
1811(文化8)年に易地聘礼で朝鮮通信使が来島した際も、幕府上使の宿館として用いられています。
対外的には近世のセオリーを取り入れた都市づくりに準じ、一方で、金石城は変わらずに拠点として維持。
独自の支配を確立させてきた、宗氏の理念と対馬藩の在り方が垣間見えます。