<対馬探訪2023> 4. 石垣のルーツを探して ~西海岸の集落へ 

今回の対馬探訪では、訪れてみたかった対馬の中部西岸にある集落をめぐることができました。

ブラタモリでも紹介されていた、南部西岸にある椎根の石屋根倉庫のほか、
藻小屋、高床式の倉庫、石垣囲みの屋敷がよく残る、中部西岸の木坂、青海、志多留の集落を訪ねました。
 

今も多く残る、城下町の防火壁



「金田城まるごと探訪ムービー」や
<対馬探訪2023> 3. 江戸時代② ~対馬藩・宗氏の城と城下町をたどる 
でもちらりとご紹介した、府中(厳原)の城下町に残る石垣。


 
 
 

江戸時代、朝鮮通信使を迎えるための整備の一環として屋敷を囲んだようです。




 
そして、防火壁としての石垣もたくさんつくられ、現在もとてもよく残っています。





防火壁が多くつくられたのは、
桟原城下町の整備により急激に人口が増えたことで、火災が増加したためだとか。
1622(元和8)年に400人程度だった人口は、1699(元禄12)年には980人ほどに急増していたそう。
人口の大半が府中に密集していたみたいですね。
延焼を防ぐため、屋敷や商家を囲む石垣が発展したようです。


 
 

では、江戸時代の府中城下町に用いられた技術は、どこからやってきて発展したのかー。
島内での違いや変遷はあるのかー。
そんなことをふんわりと考えてみたかったのです。





府中の火災を調べてみると、12月~1月が多いんですよね。
12~5月に吹く朝鮮半島側からの強い季節風が原因のひとつであれば、
朝鮮半島側にある西海岸がもっとも影響を受けるはず。
また、古代からの貿易のルートを考えれば、文化の出入り口は対馬の西側。
西側に、見たことのない集落が多いのも気になっていました。

 

椎根の石屋根倉庫



ブラタモリにも登場した、椎根の石屋根倉庫。

「板倉」という高床式の小屋の屋根に、10~15cmの粘板岩を瓦の代わりに置きます。

板倉は住むための建物ではなく、食料や家財の貯蔵・保管庫。
季節風に煽られて大火が発生したことから、母屋から離れた河川沿いに建てられました。
藁屋根から石屋根にすることで、延焼を最小限に食い止めようとしたのでしょうか。
椎根川沿いの低地に、各戸が1軒の板倉を持っていたようです。



  

 
石屋根倉庫は、江戸時代後期に存在した記録が残りますが、現在よりも石材が小さかったよう。
大正時代に大型の石材が商業的に切り出されるようになったことで、現在の姿になったようです。
古い技術を生かしながら、時代に応じて変化していったのですね。

戦前は、対馬西側の集落には石屋根の板倉があたり前のようにあったそうですよ。
雨の中の車中見学につき遠くからしか見えなかったのですが、砂岩っぽかったです。

 

藻小屋と屋敷囲みの石垣が残る、木坂の集落



屋敷囲みの石垣と藻小屋を見たくて訪れた、木坂の集落。
対馬の中部、西海岸にあります。

谷がほぼ東西に走り、西側の海岸から強風のあおりを受けそうな地勢です。
河川沿いに、石垣に囲まれた屋敷が並んでいました。



 

 

 
 
石材は砂岩なので府中とは様相が異なり、府中とは積み方も違うように感じました。
鬼門除けがあるのは、府中の石垣との共通項ですね。






藻小屋は、海岸に作られた海藻肥料の貯蔵小屋。



 

対馬は、島土の約89%が山地で、耕地が少なく食料自給が難しい島。
収穫を増すため海藻が肥料として使われ、それを収蔵するための建物でした。
江戸時代初期には存在した説があるようですが、成立については今のところはっきりせず。
西海岸は東海岸に比べて地形がおだやかで可耕地が多いことから、藻小屋も多く分布するのかもしれません。





石壁で小屋を囲む文化は、地中海域や韓国の済州島、福建省や台湾で見られるそう。
後日研究者の先生に聞いたところ、済州島のそれと似ているそうで、
韓国からの影響を強く示す文化・技術のひとつといえそうです。





もうちょっとゆっくり見たかったのですが、、、時間がなくて残念でした。







木坂の集落では、対馬の集落の在り方もわかったのもおもしろかったです。
海神神社の氏子の住む集落。
海神神社は対馬国一ノ宮と呼ばれ、神功皇后が新羅遠征の帰路に寄ったとも伝わります。

昭和の河川改修前の左岸側に、板倉が並びます。
川向こうは不浄の地で、出産や葬いも左岸側だそう。
反対に、神社のまつりごとなどは右岸側で行うそうですよ。

円錐形の石積み(ヤクマの塔)を積み上げて、男児の成長や五穀豊穣などを願う伝統行事「ヤクマ祭」が
現在も催されている地域でもあります(国の選択無形民俗文化財「木坂・青海のヤクマ」)





初めて知った「両墓制」。
海辺にご遺体を土葬する「埋め墓」、寺に「拝み墓」という墓石だけを入れたお墓を置くそうです。

 

青海地区は、藻小屋と高床式倉庫が印象的



寄っていただいた青海地区。ステキでした。


  
 

藻小屋は木坂よりたくさん残り、海辺に連立するようす、半地下の構造がよくわかりました。
木坂の藻小屋は復元されたものだそうですが、こちらは崩れかけながらも残存しています。



 

実際に韓国のどこかで見たわけではないのですが、なんとなく韓国っぽい雰囲気。
板倉内には酢や醤油などを入れた陶製の瓶を収納するそうで、これも韓国の習慣とよく似ているそうです。



 

高床式倉庫、石積みと門のある家も見られました。






青海の里は、対馬海峡西水道に面し、段々畑に囲まれた集落。
「長崎県のだんだん畑十選」にも選ばれています。

青海も木坂と同じように両墓制がわかり、今でも「ヤクマ祭」が催されている集落。
時が止まったような静けさがありました。

 

志多留の集落で、南九州の石垣を連想



木坂の集落と同じように、西側に河口がある集落です。



 
 
 

木坂の集落とは、屋敷囲みの石垣の積み方がちょっと違うように感じました。
系統は同じなので、地域差だと思います。


屋敷囲みの石垣を見ていて、出水麓(鹿児島県出水市)や知覧麓(鹿児島県南九州市)にある生垣を思い出しました。
飫肥城下町(宮崎県日南市)も、似た生垣が特徴ですよね。
対馬は強風につき、生垣よりも石垣が発達したのかもしれません。
いずれにしても、薩摩藩領の南九州地方で共通するものがあるのは、交易や文化交流を考える上でとても興味深いです。

知覧麓には、沖縄によくある「石敢當」があちこちにあって。
石敢當は鹿児島県内の各地で見るので、薩摩藩の琉球支配に従ってもたらされたのだと思います。

後日、研究者の先生に屋敷がコミの石垣について聞いたところ、
熊本県天草市にも、倉岳の石垣と呼ばれる屋敷囲みの石垣があるそうで。
棚倉城の近くですね…見事に見逃してました。要再訪。

南九州地方や沖縄地方との共通項、文化交流のルートなどはまだまだ勉強しがいがありそうです。
朝鮮通信使と琉球使節の来日を準備したのは対馬藩と薩摩藩ですし、
朝鮮通信使・琉球使節の行列の姿を記録した絵巻は対馬藩と薩摩藩によって多く描かれていますしね。


 

文化交流を示す、対馬らしい光景



集落にある、微妙にカーブする道筋に沿った石垣も、韓国の済州島でよくみられるそうで。

『魏志倭人伝』にも登場するように、朝鮮半島から文化が日本に伝えられる中継地で、
江戸時代には正式な国交の窓口になり、外交実務は対馬藩が担います。
また、江戸時代初期には「倭館」という日本人居留地が韓国・釜山に置かれ、500~600人の対馬の人が居留していました。
大陸からの文化の影響は大きく受けたはずですね。


対馬西海岸と府中の関係性や年代観は、今回さっと見ただけではわからず。
壮大な記事タイトルをつけてしまいましたが、ルーツなどまったく探れていません。笑

府中では砂岩ではなく石英斑岩が取れることから、
ふんだんに使うことができて発展した可能性はあるかもしれません。
深めたいテーマです。


いずれにしても、どこか異国の風吹くこうした集落がいくつも残るのは、対馬の魅力。
中国大陸の影響を直接受けた、対馬らしさを物語る光景ですね。

古代から近代まで、途切れずに石の技術と文化が息づく対馬。
幕末以降はその技術が砲台づくりに生かされるのでしょう。




Text & Photo / Sachiko Hagiwara


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