<対馬探訪2023> 5. 近現代 ~マニアじゃなくても垂涎!砲台の宝庫

対馬を訪れると、砲台にハマりそうになると思います。
対馬は島内に31もの砲台が残る、近代遺跡の宝庫でもあるからです。

 

約1200年ぶりに再利用!「城山砲台」



「金田城まるごと探訪ムービー」や
<対馬探訪2023> プロローグ3/4 金田城の5つの魅力【後編】 で紹介したように、
古代山城・金田城は、山頂付近だけが明治時代に「城山砲台」として改変されて再利用されます。


 

古代の城を歩いていたはずが、突如として明治時代にワープ!
1200年に再利用されるとは、天智天皇も防人のみなさんもびっくりでしょう。



 
 
金田城の登城道も、陸軍がつくった軍道。
物資輸送の馬車が通れるよう、緩斜面を徹底して計画的な道筋を構築しています。
岩盤を大胆に削り込んだ、見事な一定幅の軍道に圧倒されます。
切石を敷き詰めた排水路。
陸軍の緻密な仕事ぶりに圧倒されます。



 

城山砲台がつくられたのは、日露戦争時です。
南下政策を行うロシアは不凍港を求めて浅茅湾の占拠を狙い、
これに対して明治政府は浅茅湾内にいくつもの砲台を築いて備えました。

城山砲台の着工は1900(明治33)年4月、竣工は1901(明治34)年11月ですから、開戦の数年前から備えていたことになりますね。びっくり。


弾薬・火薬などの保管庫や砲座、観測所が残っています。
城山砲台には、28センチ榴弾砲が4門(2門×2)、設置されていました。


 

第1~3期、島内で戦略や情勢がわかる

島内には31もの砲台が確認されていて、その築造時期は
・第1期(明治20~21年代・日清戦争前)
・第2期(明治31~39年代・日露戦争時)
・第3期(大正13年~昭和14年・太平洋戦争時)
に分かれます。

その分布をみていくと、1~3期で築かれるエリアが異なります。
城山砲台をはじめとした第2期:日露戦争時の砲台は、対馬中部の浅茅湾周辺に集中。
これに対して、第3期:太平洋戦争時の砲台は、対馬北端や南端に集中します。
島のなかで情勢や戦況、戦略を知ることができるのも、対馬ならではですね。





ちなみに金田城の大吉戸神社にある金田城碑は、
昭和初期の対馬要塞司令官が、<城山=金田城>と断言し、ここが対馬要塞の起源であると述べたものです。

 

アクセス○の初級向け「上見坂堡塁」



もっとも行きやすいのは、上見坂堡塁。

上見坂公園として整備され歩くやすく、対馬空港からも近いのでちょい寄りできますよ。
明治34年~35年に構築された、第2期:日露戦争時の堡塁です。

 

万関瀬戸の突破を阻止!姫神山砲台



今回、再訪して感激した姫神山砲台。
第2期に建造された、対馬要塞の中で最大規模かつ典型的な砲台です。





対馬海峡に突き出す場所に築かれ、観測所からは対馬海峡を見下ろせる眺望のよさが魅力。
「天空の要塞」の看板も出ています(なんやねん、それ!笑)

壱岐方面や浅茅湾も一望できて、本当に眺望サイコー!
残存状態もよく、とても見ごたえがあります。

見通し抜群とはいえ、なぜ浅茅湾から少し離れたこの場所に、
なぜこれほど大規模で立派な砲台がつくられたのか、少し不思議ですよね。

しかし、訪れれば納得。
観測所からは、日露戦争に備えて陸軍が開削した万関瀬戸が見えるのです。
つまり、東側の対馬海峡側から万関瀬戸を突破して浅茅湾へ侵入されるのを絶対に阻止すべく、監視する重責を担った砲台。
万関瀬戸の開削と同時に築かれました。


 
 
 
 
 

明治33年2月に着工し、翌年11月に竣工。
砲座には、明治37年に6門の28cm榴弾砲が備え付けられました。

用いられているのは、赤レンガと地元産の浅海砂岩。
だいぶ海蝕していますね。





古代遺跡のような雰囲気です。

城山砲台にせよ姫神山砲台にせよ、
全国的に日露戦争時の砲台って、明治政府の美意識みたいなものが全面に出ていますよね。
実用性はもちろんのこと、建物の配置や道筋のラインも美しく、建物の設計も細やか。
ちょっとした処理も手が込んでいて、壁の漆喰仕上げもていねいで、こだわり満載です。

これが、太平洋戦争になると味気がなくなります。笑


 

巨大!圧巻!太平洋戦争時の「豊砲台」



全国の砲台ファン憧れの地であろう豊砲台は、第3期:太平洋戦争時の砲台。





昭和4年5月に着工し、1934(昭和9)年3月に竣工。



 
 

1921(大正10)年のワシントン海軍軍縮条約で廃艦となった軍艦・赤城の主砲が移設された、
当時は世界最大の40.6cmカノン2門を備えていました。
日本海・対馬海峡・朝鮮海峡の制海権をめぐる、重要な要塞だったのですね。



 

無残にもぶち壊された壁…!
終戦後、アメリカの爆破班によって武装解除された痕跡です。
しかし鉄筋コンクリートは厚み2mとかなり分厚く、爆破・解体しきれず途中で放置されています。


スイッチを押すと照明が30分間点灯し、内部を見学できますよ。


 

対馬藩が設置した「遠見番所」「燈明臺」とは?



対馬では、江戸時代にも交易船の入泊地に番所がいくつも開かれ、
通行船を見張る遠見番所と呼ばれる監視場が多く設置されていました。
1700(元禄13)年に幕府に提出された『対馬国絵図』には、24か所の遠見番所が描かれています。

18世紀末に異国船が日本近海に出没するようになると、
幕府は1792(寛政4)年に沿海諸藩に警戒を命じ、対馬藩では遠見番所を復活させて警戒に当たらせています。

1798(寛政10)年に対馬藩が策定した『海辺御備覚』によれば、
城山(金田城のある山)に兵の配置を計画。
結果的に大事にいたらなかったものの、麻茅湾への侵入を警戒していたようです。
金田城の一ノ城戸張り出し部分上段の石垣は、このタイミングで増築された可能性もありそうですね。


で、今回連れて行っていただいたのが写真の耶良埼灯台です。


 
 

江戸時代に対馬藩が設置した「燈明臺(灯明台)」のひとつとされるのが、現在の耶良埼灯台。
耶良埼に設置されていた燈明臺が明治時代に再建され、海軍の廃止を経て大正13年に再々建されています。

海上保安庁のサイトによれば、1641(寛永18)年頃に設置された可能性もあるとか。
…想像していたより早いなあ。さすが、対馬。

壱岐まで見える大パノラマ。
思わず歓声を上げてしまいました。



ずっと行きたいなと思いつつ今回も行けなかったのが、日清戦争に備えて建造された芋崎砲台です。
対馬のなかでは最初期の砲台になりますね。
明治30~33年に改築されているため、第1期と第2期の技術が混在するようです。

浅茅湾に突き出す芋崎は、1861(文久元)年にロシアの軍艦ポサドニック号が来航し、
半年間占拠されています(ロシア軍艦対馬占領事件(ポサドニック号事件))。
日露戦争への道のりは、すでにここからはじまっていたのですねえ。。





Text & Photo / Sachiko Hagiwara


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2. 江戸時代① ~国書偽造もやむなし!宗氏の処世術
3. 江戸時代② ~対馬藩・宗氏の城と城下町をたどる
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