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<対馬探訪2023> 7.元寇の舞台をめぐる①いざ、モンゴル軍上陸の佐須浦へ

プロローグ4/4 お届け!城組コンビのディープな旅 から続く
城組コンビの<対馬探訪2023>本編です。

こんにちは。
城組の山城ガールむつみです。
わたくし、実は…「対馬初上陸!」です。
対馬はずっと憧れの島でした。

関東で生まれ育った私にとって、「元寇」「対馬」というキーワードはまさにタマらない妖しい魅惑のキーワード!胸がトキめきます。
同時に「遠いなぁ」と異国のようにも感じていた場所でした。

いつか対馬に行ってみたいと思いながら、死ぬまでに行ければ良いなとのんきに構えていたら…なんと!そのチャンスがやってきたのです!

金田城PR事業として、城組で「金田城まるごと探訪ブック」「金田城まるごと探訪ムービー」を制作させていただくことになったのです!バンザイ!

それだけでなく、金田城と対馬の魅力をSNSで発信!というさらなるミッションをいただいたので、城組コンビは金田城だけでなく、対馬のあちこちを駆け回って魅力的な歴史や文化を探しに行ってきます!バンザイバンザイ!

ということで、対馬の魅力、歴史文化などを4回に分けてご紹介します。

1.元寇の舞台をめぐる①いざ、モンゴル軍上陸の佐須浦へ
2.元寇の舞台をめぐる②いざ、戦いの痕跡さがし
3.元寇の舞台をめぐる③いざ、英雄たちの足跡さがし
4.憧れの対馬!壮大な歴史と文化

近いぞ、対馬!

まず、対馬に着いての第一声は「近い!」でした。
私の場合、7:15羽田発の飛行機に乗って、長崎で1回乗り換えて10:10にはなんと対馬に着いてしまいました!
こんなにアクセスが良いなら、もっと早くくればよかったと後悔するほど。
福岡空港、長崎空港から一日4~5便往復してるので、結構フラリと行けてしまいます。
こうなると、着いた途端、またすぐ来たい!と思ってしまいますね。

ツシマヤマネコのイラストがお出迎え

 


城組コンビ、無事に対馬上陸です。
対馬の歴史的な位置づけや、朝鮮半島との距離感など、こちらのブログをご覧ください。
プロローグ1/4 対馬は歴史ファンの夢の島!

ツシマヤマネコ生息情報を見るだけでウキウキしてきます。ツシマヤマネコに会えるかな?(会えるまでに30年かかるそうです笑)

向かうはモンゴル軍上陸の地!

憧れの対馬に上陸して最初に向かったのは、モンゴル軍上陸の地です。
対馬空港から車を走らせること約30分。小茂田(こもだ)浜に到着です。
とても美しい海。
実は数十年前までは砂利の海岸だったようですが、現在は美しい砂浜のビーチになっています。
ここにモンゴル軍1000人が上陸したとは、想像できないほどに綺麗でおだやかな海岸です。
 



現在の「小茂田浜」という地名は後世につけられた名前で、中世においては「佐須浦」という名で文献等に登場します。
「佐須」は「砂州」を意味すると思われ、横に広がった砂浜が存在したと考えられますので、上陸に適していた地形が想像できます。


韓国から流れ着いた青いポリタンク。
このポリタンクを見てると、潮流に乗ればすぐに対馬まで来れてしまう近しい距離感が見て取れます。

元寇(文永の役・弘安の役)とは?

元寇とは文永11年(1274年)、弘安4年(1281年)の2回に渡り、モンゴル軍に襲来された歴史的大事件です。
チンギス・ハンの登場により、高麗を制圧したモンゴル軍は大帝国を築きました。さらに、チンギス・ハンの孫のクビライ(フビライ)・ハンの時代になると、日本に何度も使者を送り、通交を求めてきましたが、朝廷も鎌倉幕府もこれを黙殺しました。

これに関しては、日本側としては今まで長く交易していた高度な文化や技術を持つ中華民族とモンゴル民族は全く別ものと考えていて、はなから蒙古と交渉する気はなかったのではないかと考えられています。
どのような理由にしろ、このような歴史の流れによってついにモンゴル軍が日本に攻めかかってくることになったのです。

ちなみにこの文永の役の3年前にあたる文永8年(1271年)に、蒙古は国号を「大元」(通称元)に改めました。これにより、文永の役、弘安の役を合わせて通称「元寇」とよんでいます。「寇」は外からやってきて害を与える敵という意味があります。
 

小茂田濱神社の説明版


 

対馬に向かって出陣するモンゴル軍

文永11年(1274年)10月3日に合浦(ハッポ)からモンゴル軍が対馬に向かって出陣。
合浦と対馬の距離は約80kmほどで、潮流によっては7時間から9時間程度で到着する距離だといいます。
実は、モンゴル軍の出発日である3日にはすでに対馬で戦闘が行われていたという史料もあります。モンゴル軍は大船団だったため、到着にばらつきがあったと思われるので、先頭部隊は本隊の到着前に戦闘行為に及んでいたのかもしれませんね。
それにしても、あっという間に到着してしまう距離感に改めて驚きです。

そして5日の夕刻。
ついに対馬の西海岸にあたるここ「佐須浦(小茂田浜)」にモンゴル軍が上陸し、本格的な戦闘が行われたのです。




諸説あるものの、兵3万、軍船900艘で攻めてきたと伝わります。
佐須浦にはモンゴル軍1000人が上陸して、激しい戦いが繰り広げられたのです。
そんなことを考えながら海を見ていると、モンゴル軍の大船団が遠くから現れそうで怖いです。

迎え討つ「宗助国」

モンゴル軍が対馬に向かっているとの情報を得て、それを迎え討つは守護代宗助国(そうすけくに)!
助国は大宰府に使いを出し、自分は80騎を率いて夜のうちに佐須峠を越え、未明には佐須浦に布陣したといいます。

佐須浦に布陣した助国の80騎の軍勢の前に、次々とモンゴル軍が上陸してきました。
夜が明けて午前4時頃から合戦が始まったといいます。
武勇を誇る助国と一族郎党でしたが、あまりにも多勢に無勢のため、午前9時頃にはほぼ全員が討ち死にしたと伝わっています。

 

小茂田濱神社に建っている宗助国の銅像


このモンゴル軍襲来に際し、命をかけて戦った宗助国とその一族は今でも郷土の誇りとして語り継がれています。





室町時代創建と伝わる小茂田濱神社には、戦神として宗助国が祀られていて、今でも慰霊の大祭が行われています。
武者行列や「鳴玄の儀」と呼ばれる神事が執り行われています。

 

鳴玄の儀を執り行う神聖な基壇

「鳴玄の儀」とは、宗助国らがモンゴル軍を迎え討ったごとく、この台の上で海に向かって弓矢を構える儀式です。
はるか海を越えてやってくるモンゴル軍と、それに向かって矢を放つ助国らの武勇が目の前に浮かぶようです。

次回はモンゴル軍との戦いの伝承が残る歴史スポットをご紹介しますね。



Text & Photo / 山城ガールむつみ


Archive List
1.元寇の舞台をめぐる①いざ、モンゴル軍上陸の佐須浦へ
2.元寇の舞台をめぐる②いざ、戦いの痕跡さがし
3.元寇の舞台をめぐる③いざ、英雄たちの足跡さがし
4.憧れの対馬!壮大な歴史と文化
 

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