佐須浦以外にも、モンゴル軍との戦いの伝承はたくさん残っています。
こちらは、佐須浦よりも北側の加志浦と呼ばれる地区です。
現在は埋め立てていますが、かつては道路はなく、海が入り込んでいたとされます。
この写真の目の前付近までも海が入り込んでいたといい、ここにもモンゴル軍が上陸してきたと伝わります。
加志浦に伝わる「越前五郎の墓」です。
越前五郎盛賢は宗助国の庶兄ともされる人物です。モンゴル軍来襲のときには、加志浦に布陣して、迎え討ったとされています。
しかし、奮戦するも大軍相手になす術もなく、戦死したといいます。
現在、越前五郎の墓には宝筺印塔が残されています。
その様式から、室町時代のものであることがわかります。時代は合わないものの、この加志浦にもモンゴル軍が来襲し、宗一族が奮戦した歴史を物語る貴重な伝承と遺物といえます。
他にも、助国の庶兄と伝わる右衛門三郎は佐須浦で戦死、甲斐六郎は峰浦で戦死、下野次郎は比田勝浦で戦死したと伝わります。
越前五郎盛賢は与良郡司
右衛門三郎は佐須郡司
甲斐六郎は三根郡司
下野次郎は佐護郡司
各エリアの郡司が、それぞれ配属された土地で戦い戦死していることが伝承からわかります。このことから推測するに、島内全体にモンゴル軍が攻め寄せたと考えられます。
2度目の来襲である弘安の役の戦いの伝承は島内に残っていないとのことで、弘安の役ではモンゴル軍は対馬に寄らなかったともいわれています。
しかし、一説には文永の役の局地的で一過性の戦いではなく、弘安の役の際には長期にわたって対馬が占領されたともいわれています。
島内には「蒙古塚」と伝わる積石塚が多数残っていて、真偽はともかくとして島内全体に伝承が残っていることにより、広範囲で戦いが起きたことが想像できます。